
はじめに
本記事は、以下の二つの記事で扱った問題意識を前提としつつ、そこで十分に掘り下げられなかったオタク文化の文脈そのものに焦点を当てる試みである。
- 『Vtuberの哲学』を読み終えて――フィクションを楽しむための「技術」と、その前提条件について
- Why Does VTuber Fiction Work? — On Make-Believe, Participation, and Collective Reality
なお、これらの記事を読んでいなくても、本記事の内容は理解できるように構成している。
本稿で扱うのは、VTuber文化を支えている技術や制度そのものというよりも、それ以前に、なぜ私たちはその形式を「心地よい」と感じるのかという問いである。
そのために本稿は、VTuberを直接説明するのではなく、まず「無垢」や「日常」がどのようにフィクションの技術として成立してきたのかを辿り、最後にそれがVTuber文化でどう実装されているかを確認する。
キャラ萌えとは、そもそも何だったのか?
「かわいい」は、どこから来た感覚なのか
VTuber文化を語るとき、避けて通れない言葉に「かわいい」がある。
しかしこの言葉は、あまりにも日常語として流通しすぎている。
それは単なる外見評価ではない。
どこか守りたくなる感じ、強く踏み込まれない距離感、未完成さや未熟さを含んだまま肯定される感覚――そうしたものが、ひとまとめに「かわいい」と呼ばれている。
重要なのは、この感覚が最初から整理された価値観として存在していたわけではないという点だ。
むしろ多くの場合、それは「なぜか惹かれる」「理由はよく分からないが気になる」という、説明しにくい引力として経験されてきた。
本記事では、「かわいい」が概念として整うより前に、まず体感として先に立ち上がっていた――その地点から出発しよう。
テレビアニメの起点に戻る――鉄腕アトムという足場
では、「かわいい」という感覚が、いま私たちが当然のものとして使っている意味合いを持つ以前に、どのような形で立ち現れていたのか。
一度、できるだけ多くの人が共有している地点まで戻ってみよう。
「テレビアニメとは、そもそも何だったのか」という問いである。
その起点としてまず思い浮かぶのは、『鉄腕アトム』だろう。
ここで『鉄腕アトム』を選ぶのは、作品として偉大だからというより、テレビアニメが「物語を背負う装置」として立ち上がった地点を、もっとも分かりやすく可視化できるからだ。
物語としての『鉄腕アトム』は、きわめて明確な構造を持っている。
正義、科学、倫理、社会との関係。
アトムは単なるキャラクターではなく、当時の「未来」や「人間性」を背負った存在として描かれていた。
この時点でのテレビアニメは、まず何よりも物語を伝える装置だった。
キャラクターはその物語を成立させるための役割として配置され、世界観やテーマに従属していた。
ここで一つ、素朴な疑問が浮かぶ。
――では、ウランちゃんはどうだったのか?
それは「キャラ萌え」だったのか?
ウランは、アトムの妹として登場するキャラクターである。
小さく、無邪気で、感情表現が豊か。
いまの感覚で見れば、「かわいい妹キャラ」の原型のようにも見える。
では、ウランちゃんは「キャラ萌え」の対象だったのだろうか。
この問いに、ここで即答する必要はない。
むしろ、即答しない方がいい。
たしかに、後から振り返れば、ウランには「かわいい」と感じさせる要素が多く含まれている。
しかし、それはキャラ単体が独立した価値を持っていたからだろうか。
よく見ると、ウランの「かわいさ」は、次のような条件のもとで成立している。
- 家族的な関係性の中に置かれている
- アトムという主人公を引き立てる位置にある
- 保護される存在として、倫理的秩序の内部に完全に組み込まれている
つまりそれは、物語に内在した「かわいさ」であって、キャラクターそのものに欲望や感情が直接投影される対象ではない。
少なくとも、この時代には「キャラ萌え」という言葉も、それを支える消費の仕方も、まだ存在していなかった、というのが妥当だと思う。
では、「キャラ萌え」とは何を指しているのか
ここで、あらためて問いを立て直す必要がある。
「キャラ萌え」とは、いったい何を指しているのだろうか。
重要なのは、それがキャラクターの属性の問題ではないという点である。
キャラ萌えとは、次のような楽しみ方・消費の仕方の変化を指している。
- 物語の展開とは関係なく
- 世界や役割から切り離され
- キャラクターそのものに感情が直接向けられる
言い換えれば、物語とキャラクターのあいだにズレが生じ、キャラが「引用可能」な存在として前に出てくる現象である。
この意味で言えば、ウランちゃんの時代には、まだ「キャラ萌え」は起きていなかった。
かわいさはあった。
しかしそれは、物語の外に浮かび上がることはなかった。
そして――この前提を踏まえたとき、次に現れてくる存在は、どうしても「異物」として感じられることになる。
それが、80年代に登場した、吾妻ひでおという存在である。
80年代──物語から距離を取るという態度
シリアスな物語へのアンチテーゼ
高度経済成長の終盤から70年代にかけて、日本社会には政治・思想・歴史といった大きな物語が強い重力をもって存在していた。
学生運動に象徴されるように、「正しさ」や「使命」をめぐる語りは、社会を変えるための切実な言葉として機能していた。
そのため、80年代のサブカルチャーが「シリアスな物語への疲労」という言葉で説明されてきたことにも、一定の説得力はある。
しかし、80年代に現れた軽さやパロディ性を、単なる消耗や逃避として捉えるのは一面的だろう。
というのも、当時相対化されたその「物語」自体が、すでに多くの可能性を排除した、きわめて限定的な世界像に基づいていたからだ。
そう考えるなら、80年代的な軽やかさは、単なる疲労ではなく、与えられた物語そのものへのアンチテーゼとして読み直すことができる。
吾妻ひでおという「事件」
この文脈の中で登場するのが、吾妻ひでおである。
吾妻ひでおの作品は、当時の一部の言説空間では「軽すぎる」「ふざけている」「危険だ」といった調子で語られることがめずらしくなかった。
とりわけ、「ロリコン的」とラベリングされた表現は、強い拒否反応を伴って受け取られた局面もある。
ここで扱いたいのは表現の是非ではなく、なぜそれが「物語を背負わない態度」と結びついて受け取られたのか、という受容の構造である。
注目すべきなのは、吾妻ひでおの表現が単に逸脱的だったから問題視されたのではない、という点だ。
彼の描くキャラクターたちは、どこか力が抜けていて、使命を背負っておらず、歴史や成長の物語に組み込まれていない。
そこには「正しさ」も「克服」も「結末」も強く要請されない。
むしろ、世界や物語のほうが後退し、キャラクターの佇まいだけが、ぽつんと前に残っているように見える。
このズレ、この軽さ、この所在なさこそが、当時の感覚にとっては説明しがたい「異物」だったといえる。
物語を背負わないという感覚
ここで重要なのは、この態度が何か明確な思想や主張として提示されていたわけではない、という点である。
それは、次のようなものではない。
- 社会批判でもなく
- 政治的主張でもなく
- 新しい倫理の提示でもない
むしろ「物語を引き受けないで済む場所がほしい」という、言語以前の感覚に近い。
「無垢」という仮置き
本稿では、この感覚を指し示すための説明語彙として、「無垢」という言葉を充てておきたい。
ここで言う「無垢」とは、幼さや未熟さを称揚することではない。
ましてや、現実から目を背けるための逃避でもない。
それは、物語や歴史、立場や使命、役割といったものをいったん引き受ける前の位置に身を置こうとする態度であり、意味や正しさが過剰に付与される以前の状態を、肯定的に感じ取ろうとする感覚である。
吾妻ひでおの作品に見られる軽さやズレは、この「無垢」な位置への欲望を、最初期のかたちで可視化したものだったのではないか。
それは、物語を壊すことでも、物語に抗うことでもなく、ただ「物語を背負わない」という選択肢を、静かに差し出した表現だったと言える。
そしてこの態度は、80年代という時代にとどまらず、やがて別のかたちへと展開していく。
「終わらない日常」は何を批評していたのか
物語から切り出された感情としての『萌え』
感情の置き場所がずれはじめたとき
前章では、80年代に現れた軽さやパロディ性を、単なる「疲労」ではなく、与えられた物語そのものへのアンチテーゼとして捉え直した。
そして、その文脈の中で――物語や使命を背負う前の位置に身を置こうとする感覚を、暫定的に「無垢」という言葉で仮置きしておいた。
ただ、ここで一つ、次の章に進む前に挟んでおきたい「違和感」がある。
「無垢」という言葉で指し示したかったのは、物語に回収される以前の感覚であり、役割や正しさが刻印される前の位置だった。
けれども、80年代以降に前景化していくのは、単に“物語を背負わない態度”だけではない。
むしろそこから先で、感情そのものの置き場所が変わりはじめる。
物語の内部に回収されていたはずの感情が、キャラクターの側に残り、宙吊りのまま反復されるようになっていく。
それを指し示す語として、後になって「萌え」や「キャラ萌え」という言葉が使われるようになるのだと思う。
もちろん、ここで「萌えとは何か」を定義するつもりはない。
むしろ、この言葉が厄介なのは、それがあまりにも後付けの説明語彙であり、現場で起きていた感情の変質を、きれいな概念として回収してしまいがちだからだ。
だから、ここでは定義ではなく、「何が切り出されたのか」だけを確認しておきたい。
物語に内在するキャラ/日常に乖離するキャラ
たとえば、1970年代のアニメ作品にも、魅力的なヒロインはたくさんいる。
メーテルや森雪のようなキャラクターは、当時すでに強い人気を獲得していた。
しかし、その人気は、後の「キャラ萌え」と同じ質だったのだろうか。
直感的には、少し違う。
彼女たちは“憧れ”や“投影”の対象ではあっても、どこか完成された像として立っている。
物語の中での位置づけも明確で、ミステリアスで大人びていて、主人公を導く者として機能している。
そこには、たしかに強い魅力がある。
だが、その魅力はまだ、物語の内部で成立している。
つまり、キャラクターの魅力が「物語の役割」や「世界観の象徴」と結びついたまま保たれている。
ところが、80年代のラブコメ的な世界に入ってくると、キャラクターの魅力の質が変わりはじめる。
うる星やつらのラムや、めぞん一刻の音無響子のような存在は、憧れの像というよりも、もっと日常の側に降りてくる。
嫉妬し、拗ね、失敗し、揺れ、感情がちぐはぐなまま前に出てくる。
しかも、その揺れは、物語の“課題”として解決されるわけでもなく、人格形成の物語として回収されるわけでもない。
ここで起きているのは、ヒロインが理想像として崇められることではなく、むしろ「付き合える」距離にまで近づいてくることだ。
物語の進行とは別に、キャラクターの反応や佇まいが、そのまま反復され、消費されうるものになる。
言い換えれば、感情が、物語ではなくキャラクターの側に“残る”。
このとき、視聴者の感情の向き先も変わる。
物語を追っていくことで感情が運ばれるのではなく、キャラクターの揺れやズレに、理由の定まらない引力として惹きつけられる。
しかもそれは、「このキャラはこういう役割だから好きだ」という筋の通った説明を必要としない。
むしろ、説明しきれないまま残る感情こそが、繰り返し呼び戻される。
ここに、後になって「萌え」と呼ばれるものの芽があるのだと思う。
形式へ
重要なのは、これが「物語がなくなった」という話ではないということだ。
物語はもちろん存在する。
しかし、感情の一部が、物語の進行から切り離され、キャラクターの佇まいの側に留まるようになる。
回収されない感情が、作品の内部に“居場所”を持ち始める。
そして、この“回収されない感情”の置き場所を、作品の側がどのような形式で支えるようになるのか――その問いに、極端なかたちで答えてみせたのが、次に扱う『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だった。
日常がループし、物語が進まず、それでも空気だけが維持される。
そこでは、物語が感情を回収するのではなく、日常という形式が、回収されない感情を抱えたまま成立してしまう。
日常がループする世界
『ビューティフル・ドリーマー』の公開当時、世間の反応として、「難解だ」「わけがわからない」「いつもの『うる星やつら』と違う」といった戸惑いの声が散見されたという。
文化史的に振り返ると、それは当然の反応だったとも言えるだろう。
なぜならこの作品は、物語を進めることよりも、「進まない状態」を徹底的に維持することに力を注いでいるからだ。
物語の舞台は文化祭前日の友引高校。
だが、翌日になっても文化祭は始まらない。
朝が来ても、同じ一日が繰り返される。
時間は流れているようで、どこかで停止している。
原因はある。
黒幕もいる。
だが、それ以上に強く印象に残るのは、「なぜこの世界は、ここに留まり続けているのか」という感覚そのものだ。
ここで描かれている日常は、単なる舞台装置ではない。
物語を展開させるための「前振り」でもない。
むしろ、日常そのものが自己完結した世界として立ち上がっている。
キャラクターたちは、問題を解決しようとはするが、その解決は「次の展開」へとつながらない。
終わらない日常が、何度も再生される。
重要なのは、この日常が「退屈」や「停滞」として描かれていない点だ。
むしろそこには、奇妙な心地よさがある。
世界が壊れないこと、関係性が変わらないこと、その場に留まり続けられること自体が、どこか肯定的に提示されている。
ここで、テレビアニメが担ってきた役割が、ひとつずれてくる。
それまでのテレビアニメは、基本的に「物語を語る装置」だった。
善と悪、成長と克服、出発と帰結――そうした時間的な運動を、週ごとに少しずつ進めていくメディアだった。
しかし『ビューティフル・ドリーマー』では、時間は進まない。
物語は語られようとするが、どこかで足止めされる。
その代わりに前景化するのは、「この日常が続いてしまうこと」そのものだ。
これは、物語の失敗ではない。
むしろ、物語が感情を回収する装置であること自体への、静かな疑問提示だと読むことができる。
日常は逃避だったのか?
「終わらない日常」は、しばしば「現実逃避」や「シリアスな世界からの後退」として語られてきた。
たしかに、世界が変わらず、関係性も固定され、責任や決断が先送りされ続ける構造は、そう見えても不思議ではない。
だが、本当にそれだけだったのだろうか。
ここで思い出しておきたいのは、前章で触れた80年代的な態度――つまり、「シリアスな物語へのアンチテーゼ」という視点だ。
『ビューティフル・ドリーマー』において拒否されているのは、現実そのものというよりも、「現実はこうでなければならない」という単線的な語り方ではないだろうか。
進歩しなければならない。
成長しなければならない。
選択し、決断し、次へ進まなければならない。
そうした時間観や人生観そのものが、いったん宙に浮かされている。
終わらない日常とは、「何もしない」ことの肯定ではない。
むしろそれは、「意味や正しさに回収されない時間が存在しうる」という、別のリアリティの提示だ。
ここで重要なのは、キャラクターたちが空虚になっていない点だ。
彼らは感情を失っていないし、世界が無意味になったわけでもない。
ただ、感情が「物語的な結末」へと収束することを、拒まれている。
この構造は、前章で仮置きした「無垢」という感覚と重なっている。
物語や使命を背負う前の位置に留まること。
意味づけが過剰になる前の、未確定な状態を、そのまま保つこと。
終わらない日常は、この「無垢」を、個人の態度ではなく、世界の形式として実装してみせたのだと言える。
日常が「価値」になる瞬間
ここで、決定的な転換が起きる。
それまでの日常は、物語の合間に置かれる「準備段階」だった。
だが、この時期を境に、日常そのものが鑑賞の対象として成立し始める。
何が起きるか。
物語の起伏や結末よりも、キャラクター同士の距離感、会話のテンポ、場の空気――そうしたものが、作品の価値を支え始める。
このとき、感情の向き先も変化する。
「この物語はどう終わるのか」ではなく、「この空気が続いてほしい」という欲望が前面に出てくる。
ここに、「萌え」の原型が見えてくる。
ただし、ここでもう一度強調しておきたいのは、これはまだ「キャラ単体を愛でる」段階ではないということだ。
重要なのは、キャラそのものというよりも、キャラが存在する場、その関係性、その日常の温度だ。
無垢は、ここで「態度」から「形式」へと移行する。
吾妻ひでおの作品に見られた、物語を背負わない佇まい。
それが、『ビューティフル・ドリーマー』のような作品を通じて、「終わらない日常」というかたちで、明示的に世界そのものに組み込まれていく。
日常は、もはや物語の背景ではない。
それ自体が価値を持ち、感情を受け止める器になる。
90〜00年代──セカイ系と日常系の分岐
「世界を救う話」が求められた理由――使命・選択・唯一性
80年代を通じて「日常」は、物語に回収されない感情を受け止める形式として、ひとつの価値を獲得した。
しかし、その流れは、そのまま一直線に「何も起こらない世界」へと進んだわけではない。日常が価値になる一方で、その“保留”に耐えられない感覚もまた強まった。90年代は、その二方向が同時に立ち上がった時期だった。
それが、「世界を救う話」である。
ここで言う「世界を救う」とは、単にスケールが大きいという意味ではない。
重要なのは、次の構造だ。
- 選ばれた主体がいる
- その選択に取り返しがつかない意味が与えられる
- 個人の決断が、世界全体の存続に直結する
80年代的な「物語から距離を取る態度」は、ある意味で、主体に過剰な責任を負わせない形式だった。
だが90年代には、その“引き受けなさ”そのものに、別の不安が重なってくる。
次の問いである。
- 何も決めなくていいのか
- どこにも賭けなくていいのか
- このまま「保留」し続けていいのか
こうした問いに対する、一つの回答が、「それでも、選ばれてしまう」という物語形式だった。
セカイ系と呼ばれる構造は、主体の自由を回復させるためというより、「選択から逃れられない」という感覚を、物語化したものと捉えることもできる。
それは、日常からの後退ではなく、日常を一度通過した後に生じた、別種の緊張だった。
日常系というもう一つの選択――何も起こらない/誰も成長しない/それでも続いていく
一方で、同じ90年代から00年代にかけて、もう一つの方向が、静かに洗練されていく。
それが、後に「日常系」と呼ばれる形式である。
ここで重要なのは、日常系が「物語を描けなかった結果」ではない、という点だ。
むしろ日常系は、次のことを意識的に選び取った形式だった。
- 成長しないこと
- 決着をつけないこと
- 変化を最小限に抑えること
そこでは、次の状態が成立する。
- 問題は解決されない
- 関係性は固定される
- 感情は大きく前進しない
にもかかわらず、世界は壊れず、時間は流れ続ける。
これは、第3章で触れた「無垢の実装」が、さらに一段階進んだ状態だと考えられる。
80年代において「無垢」は、物語から距離を取る感覚として現れた。
90〜00年代の日常系では、その感覚が、形式そのものとして安定化している。
日常は、もはや一時的な逃避でも、暫定的な場所でもない。
それ自体が、居続けるための構造になっている。
「キャラ」から場へ
そして、この二つの方向を見比べたとき、ある気づきが立ち上がってくる。
それは、「キャラの性格差よりも、場のトーンがすべてを支配している」という感覚だ。
登場人物たちは、ある一定の調子を共有している。
極端に踏み込まない。
決定的な断絶を起こさない。
誰かを完全に排除しない。
個々のキャラクターがどういう性格か、というよりも、その場全体が許容する振る舞いの範囲が、先に決まっている。
ここで、焦点ははっきりと移動する。
キャラが無垢なのではない。
誰か一人が特別なのでもない。
無垢を成立させているのは、「場」そのものなのではないか、という問いが浮かび上がる。
セカイ系は、個人に過剰な意味を集中させることで、日常を破壊しようとした。
日常系は、意味の集中を避けることで、日常を維持し続けた。
だが、そのどちらにおいても、感情が成立する前提として、「場の安定性」が、すでに不可欠になっている。
この地点で、キャラや物語は、もはや主役ではない。
前景化しているのは、関係性が破綻しないように設計された空間そのものである。
キャラではなく、「場」/やさしい世界
誰か一人が特別なのではない/例外がいないという不思議さ
ここまでの流れを踏まえると、一つの素朴な疑問が生じる。
無垢なのは、いったい誰なのか。
キャラクターが無垢なのか。
それとも、特定の主人公だけが例外的なのか。
だが、90〜00年代以降の作品を眺めていくと、この問いそのものが、どこか的外れになっていく。
なぜなら、そこでは、次の状態がきわめて安定して維持されているからだ。
- 極端に賢い人物もいない
- 極端に愚かな人物もいない
- 決定的に逸脱した存在がいない
誰か一人が「純粋」なのではない。
誰か一人が「守られるべき存在」なのでもない。
むしろ不思議なのは、例外がいないことそのものである。
登場人物たちは、それぞれ個性を持っている。
しかし、その個性が場を破壊するほど突出することはない。
無垢は、キャラの属性として配置されているのではなく、場全体に均等に分配されている。
ここで初めて、「無垢」という感覚は、個人の性質ではなく、関係性の設計によって成立しているという姿を見せ始める。
ここまでの議論を読んで、ふとこんな連想が浮かぶ人もいるかもしれない。
「……これって、いわゆる“やさしい世界”っぽいやつでは?」
ただし先に断っておくと、「やさしい世界」は、もともと厳密な概念語として定着してきた言葉ではない。
むしろ私の観測範囲では、ニコニコ動画などのネット空間で、ご都合的な救済展開や、誰も傷つかない空気に対して、笑い混じりに投げられる“ツッコミ”として流通してきた――その程度の、かなり軽いミームに近い。
そして面白いのは、「やさしい世界w」と言ってしまうその態度自体が、踏み込みすぎず、裁断せず、空気を壊さない――そういう“場の取り回し”を、いわば再演してしまっているようにも見える点だ。
ここでの「w」も、嘲笑というよりは、過度に深刻化させず場の温度を保つための照れ隠し(あるいは安全弁)として働いている側面がある。
そこで本記事では、これをいったん仮のラベルとして――ここから先、便宜的に「やさしい世界」と呼んでみることにしたい。
誰も踏み込まない/誰も裁かない/誰も置いていかない
この「やさしい世界」は、いくつかの非常に特徴的なルールによって支えられている。
それは、明文化された規範ではない。
むしろ、破られない前提として共有されている。
たとえば――
- 誰も、他人の内面に過剰に踏み込まない。
- 誰も、決定的な評価や裁断を下さない。
- 誰も、明確な敗者として置き去りにされない。
重要なのは、これが「優しさ」の表明ではない、という点だ。
それは道徳的な配慮というより、空気・テンポ・間合いの管理に近い。
会話は、決着をつけない。
感情は、爆発しきらない。
問題は、完全には解消されない。
それでも、場は壊れない。
むしろ、この不完全さこそが、安心感の源泉になっている。
ここでは、次のことが必須条件ではない。
- 正解を出すこと
- 成長を示すこと
- 勝敗を決めること
場に居続けることそれ自体が、十分に肯定されている。
この感覚は、無垢が個人の属性ではなく、関係性の形式として“安定しうるものとして観測される状態”だと捉えることができる。
これは価値観なのか?/それとも技術なのか?
しかし、この地点で、どうしても拭えない違和感が生まれてくる。
この「やさしい世界」は、価値観なのだろうか。
誰かが強く信じ、守ろうとしている理念なのか。
それとも、自然発生的に共有された倫理なのか。
それとも――もっと別のものなのではないか。
なぜなら、この場は、次のことをしないにもかかわらず、驚くほど安定して機能しているからだ。
- 意見の違いを議論しない
- 価値の衝突を処理しない
- 問題を解決しない
もしこれが単なる価値観であれば、どこかで対立や破綻が生じてもおかしくない。
だが実際には、場は崩れず、参加者は入れ替わりながら、同じ調子が維持され続ける。
この安定性は、信念の強さというより、運用の巧みさに近い。
つまり、ここで問われるべきなのは、これは「こうあるべきだ」という価値の共有なのか、それとも「こう振る舞えば壊れない」という実践的なノウハウなのか、という点である。
ただ一つ確かなのは、キャラでも、物語でもなく、場そのものを維持するための何かが、すでにフィクションの中核に入り込んでいる、という事実だ。
VTuber文化は、どこから現れたのか
フィクションを「共同で」維持する実践――見る/演じるの分離が曖昧になるとき
ここまで見てきたように、90年代以降のフィクションでは、キャラでも物語でもなく、場そのものを維持することが前景化していた。
VTuber文化は、この流れの延長線上に、きわめてはっきりしたかたちで現れている。
まず注目すべきなのは、VTuberにおいては、次の境界が決して完全には分離していない、という点だ。
- 演じる側
- 見る側
VTuberは一人で配信している。
だが、そのフィクションは、演者だけでは成立しない。
次の要素はすべて、視聴者側の振る舞いによって支えられている。
- コメントの仕方
- 距離の取り方
- 触れてよい話題/触れない話題
- キャラ設定の扱い方
つまり、VTuberのフィクションは、「誰かが見ているから成立する」のではなく、「皆がそれとして扱い続けるから成立する」ものだと言える。
ここでは、フィクションは完成品ではなく、運用され続ける状態として存在しており、この構造は、第5章で見た「やさしい世界」のあり方と、ほとんどそのまま重なっている。
なぜアニメ的ルックなのか――価値観への参加表明としてのアバター
では、なぜVTuberは、あのようなアニメ的ルックをまとっているのか。
この問いに対して、一つの重要な参照点となるのが、バーチャル美少女ねむ氏(『メタバース進化論』2022)の議論である。
ねむ氏は、美少女を、
- 現実の女性の代替
- 理想化された身体
- 性的対象
ではなく、「かわいい」という価値観の具現化として捉えていた。
この議論を、ここまでの文脈に接続すると、アニメ的ルックは次のように読み替えられる。
それは、次のような非言語的な参加表明なのではないか。
- 「私はこの世界観のルールを理解しています」
- 「この場を壊さない距離感を引き受けます」
アニメ的ルックは、個性を誇示するための装飾ではない。
むしろそれは、過剰なリアリティを排し、誰もが同じ地平に立つための共通フォーマットとして機能している。
ここで重要なのは、「かわいい」という感覚そのものよりも、それを扱うための態度である。
VTuberのアバターは、無垢そのものを表象しているのではない。
無垢を安全に扱うための形式を、視覚的に提示している。
キャラでもなく、物語でもなく、維持されている「場」
ここまで辿ってきて、ようやく一つの輪郭がはっきりしてくる。
VTuber文化の中心にあるのは、次のものではない。
- 強烈なキャラクター性
- 一貫した物語
- 明確な世界設定
それらは確かに存在するが、主役ではない。
中心にあるのは、壊れない関係性の運用であり、崩れない場の維持である。
VTuber文化とは、次のようなものだと言える。
- 無垢を誰かに背負わせる文化ではなく
- 無垢を場として分散させる文化
誰か一人が特別に純粋なのではない。
誰か一人が守られる存在でもない。
演者も、視聴者も、同じルールの中にいる。
だからこそ、過剰な感情も、過剰な踏み込みも、過剰な回収も、慎重に避けられる。
たとえば、設定に対して過度に踏み込むメタコメントや、現実の人格を過剰に確定させようとする振る舞いが「空気を壊す」と感じられるのは、この場の運用ルールから逸脱するためだ。
ここで初めて、これまで曖昧に使われてきた諸要素――無垢、萌え、日常、場、狂気との距離が、一本の線として繋がる。
終章
ここまで見てきた、無垢、終わらない日常、キャラではなく場、フィクションを共同で維持する実践。
これらをまとめて指すために、本稿では「やさしい世界」という言葉を仮置きしてきた。
重要なのは、これは理念でも、理想郷の名前でもないという点だ。
「やさしい世界」とは、次のことを極めて実践的に運用するための形式である。
- どこまで踏み込まないか
- どこで線を引くか
- どの感情を回収しないままにするか
「やさしい世界」は、こう誤解されるかもしれない。
- 甘い
- ぬるい
- 逃避的
- 成長を拒否している
だが、本稿で見てきたように、それは正確ではない。
やさしさとは、感情を過剰に肯定することではない。
むしろそれは、感情を肯定する態度というより、感情が暴走しないための「速度制限」の設計に近い。
「やさしい世界」とは、何でも許す空間ではない。
何を許さないかを、あらかじめ共有している場――それが「やさしい世界」といえるのではないか。


コメント