はじめに
きっかけは、いつもの ChatGPT との会話だった。
そのとき僕は、なぜかプロレスという文化がどのように社会的需要を獲得してきたのか、という話をしていた。
導入としては意味不明かもしれないけれど、本当にそうだったのだ。
そこから話題は、メディアが生み出す虚構のあり方へと移り、『【推しの子】』の話になり、さらに Vtuber の話へと流れていく。
その流れの中で紹介されたのが、山野弘樹『Vtuberの哲学』という一冊だった。
振り返ると、かなり意味不明な経路だということは自分でも分かる。
けれど、実際にそういう偶然の連鎖を経て、僕はこの本に辿り着いた。
一方で、そうした偶然とは別に、僕自身の側にも、もともとこの本に出会うための「下地」はできていた。
一言で言えば、僕はニコニコ動画黎明期にゲーム実況にどっぷり浸かり、学生時代を生主文化圏の住人として過ごしてきた、生粋の「インターネット老人会」の一員である。
そして――これは、立ち位置によってはタブーとされる切り口かもしれないけれど――
当時の生主たちが、のちに Vtuber として「転生」していく過程を、僕はこの目で何度も見てきた。
そこには、少なからずワクワクする感情もあった。
だから『Vtuberの哲学』というタイトルを目にしたとき、
「おお、ついに来たか」
あるいは
「いや、やっと来たか」
という感慨を抱いたのは、ある意味で必然だったのだと思う。
僕にとって Vtuber という文化は、「まったく新しい現象」というよりも、
実況文化やコメント文化を含めた、日本のネットエンタメの延長線上にあるものとして体感されてきた。
だからこそ、この文化を単なる流行や技術革新としてではなく、哲学的に定義し直そうとする試みに、まず素直な関心を抱いたといえるだろう。
本記事は、山野弘樹『Vtuberの哲学』(2024年)を読んだうえでの感想・思考整理であり、内容の要約ではない。この読書を通じて、僕の中で立ち上がってきた問いや違和感を、そのまま記録していくことを目的としている。
それが、読み手にとって本書の扱うテーマへの興味関心につながればうれしいと思う。
この本は何をしている本だったのか
本書は、VTuberとは何かという「唯一の正解」を外側から言い当てるというよりも、著者の経験的直観を出発点にしながら、それを説明できる形へと概念装置を組み直し、事例によって補強していくタイプの議論だったと思う。
前半の主題:存在様式の定義
本書の前半では、哲学理論(制度的存在者、非還元主義など)を参照しながら、
Vtuberという存在を、
- 単なる配信者でもなく
- 架空キャラクターでもない
「第三の存在様式」として定義しようとする。
ただし、理論的な展開は全体の前半、正確に言えば三分の一程度でいったん落ち着き、
中盤以降はかなり明確に 実例紹介中心の構成になる。
実際に読んでいて印象的だったのは、
著者がかなり広くVtuber文化を「見ている」し、
「好きなんだなあ」という感情が素直に伝わってくる点だった。
研究書としての硬さと、対象への愛着が同時に存在している、
その意味ではとても誠実な本だと思う。
本書後半の主題:フィクションを楽しむための「技術」
読み進める中で、だんだんはっきりしてきたのは、
この本の主題が、
Vtuberというフィクションを、
いかにして共同で“楽しめるもの”にしているのか
という点にある、ということだった。
後半で扱われる主な論点は、概ね次の三つに整理できる。
① 身体性
モーションキャプチャ等を通じて、
演者とアバターの身体的接続がどのように成立し、
それをリスナー側がどのように読み取っているのか。
身体は単なる物理的実体ではなく、
接続され、解釈されるインターフェースとして扱われている。
② メイクビリーブ(make-believe)
「絵じゃん」という素朴なツッコミに対し、
それを否定するのではなく、
- どのような認識のワンクッションを置くことで
- フィクショナルな真実を共有できるのか
という方向から説明が試みられる。
作中では、
「架空の存在のはずなのに現実のコンビニに行った」
といった体験談を、制度的真実として読み替えることで、
その齟齬が処理される、という説明がなされる。
この部分は理論的には理解できる一方で、
個人的には、まだ自分の中で十分に身体化しきれていない感覚も残った。
ただし、これはもう少し時間をかけて吟味すれば、
腑に落ちてくる可能性もある論点だと思う。
③ 芸術鑑賞的視点
演者、イラストレーター、3D技術者など、
複数の専門的技術が組み合わさることで、
- 物語的な楽しみ
- 見ているだけで得られる感覚的快楽
が成立している、という議論。
総合芸術としてのVtuberという捉え方は、
かなり正当な美学的整理だと感じた。
読み終えての全体的な理解
以上を踏まえると、この本は最終的に、
Vtuber文化とは、
フィクションを楽しむための技術が
新しい形で実装された場である
という理解に収束しているように思う。
ここでいう「技術」とは、
- イラストをリアルタイムで動かす技術(演者側)
だけでなく、 - それをどう認識し、どう振る舞うかという
見る側の技術(認識様式・マナー)
も含んでいる。
つまりVtuber文化は、
- 技術革新によって生まれた
- まったく新しいフィクション
というより、
一定のロールプレイ能力を前提とする文化的実践が、
技術によって可視化・拡張されたもの
と理解できる。
既存文化との連続性
この「認識の切り替え」は、
実は既存の文化実践とも連続している。
- 漫才が立ち話からシチュエーションコントへ
シームレスに移行する瞬間 - 恋愛において
誕生日や記念日を「特別な日」として扱う態度 - 国家や国旗をめぐる想像の共同体の成立
これらはいずれも、
一定のドラマツルギーを前提に、役割とマナーを引き受ける技術
として理解できる。
そう考えると、
本書の議論は哲学・社会学・心理学が
長年扱ってきたテーマとも、
かなり正統に接続できる。
最後まで残った違和感――「オタク的文脈」はどこにあるのか
ただし、読み終えた後に一つ、
かなり強く残った違和感もある。
それは、
こうした認識様式が、
どの文化圏では自明で、
どの文化圏では自明でないのか
という問いが、ほとんど扱われていない点だ。
本書では、
メイクビリーブやロールプレイを可能にする前提条件が、
かなり自然なものとして語られている。
さらに言えば、その成立はしばしば循環参照――
「そう名乗り、そう扱い、そう宣言することで成立する」――
を含んでいる。
だからこそ、その循環がどの文化圏では自然に回り、どの文化圏では回りにくいのか、
という差異そのものの記述が重要になるはずだ。
つまり、個人的には、
- それは一般的な人間能力というより
- オタク文化の中で訓練されてきた
特殊な認識様式
なのではないか、という感覚が最後まで拭えなかった。
「オタク的文脈」という言葉で雑に済ませてしまったが、
これはむしろ、
かなり丁寧な言語化が必要なテーマだと思う。
この本を「スタート地点」として読む
とはいえ、これは欠点というより、
この本が「研究のスタート」として書かれているからこそ、
必然的に残された余白でもある。
本書は、Vtuberを
架空か現実か、という二分法から救い出し、
楽しむための技術として正当に位置づけた。
その一点だけでも、十分に重要な仕事をしている。
そして、
この本を足がかりに、
- オタク的文脈とは何か
- 認識様式の訓練とは何か
- それが労働や制度とどう接続するのか
といった問いを、
次に引き受けることができる。
本書は、そのための
とても良い出発点だったと思う。


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