ChatGPTと読む『ハムレット』④:第三幕 前半―独白は誰に聞かれているのか?

読書×AI対話

Author’s Note / Framing

On Terms, Distance, and Why This Essay Was Written
This essay was not written to define a doctrine, defend a value system, or propose a new ideology.
Rather, it attempts to trace a practice—
a way of relating to fiction, characters, and others—that has gradually stabilized across several decades of Japanese media culture, often without being clearly named.
Throughout the text, I use several terms that may appear familiar, yet are employed here in a deliberately specific and provisional way.
For example, “Kawaii” is not treated simply as “cuteness,”
“Sekai-kei” is not reduced to a genre label,
and “Yasasii-sekai” (Gentle World) is not assumed to be a commonly shared or universally accepted concept.
In particular, Yasasii-sekai is not presented as an established analytical term.
It originated largely as a casual internet expression—often ironic, sometimes affectionate—used to comment on narratives that felt conspicuously forgiving, frictionless, or implausibly kind.
What interests me here is not the meme itself, but the condition it occasionally pointed toward.
That is:
a situation in which innocence is no longer an attribute of a character,
nor a moral achievement,
but something that emerges between people,
as a shared constraint on how fiction is treated, sustained, and interacted with.
When I refer to innocence in this essay, I do so tentatively.
It is not meant to signify purity, naivety, or moral superiority.
Instead, it functions as a placeholder for a pre-narrative stance—
a refusal to immediately impose judgment, destiny, or “seriousness” onto a fictional situation.
Likewise, when I discuss parody, everyday-life narratives, or VTuber culture,
my aim is not to argue that these forms are inherently progressive, ethical, or “better” than others.
They are simply different answers to a recurring question:
How can fiction be enjoyed without forcing participants
to carry the full weight of history, ideology, or personal judgment?
This question has been asked implicitly—sometimes clumsily, sometimes playfully—across multiple generations of creators and audiences.
The essay proceeds historically, but not exhaustively.
It does not claim a single origin, nor a linear evolution.
Instead, it follows a series of shifts in attitude:

  • from parody as distance,
  • to innocence as a felt absence of obligation,
  • to everyday life as a formal structure,
  • to the atmosphere or the place as the primary stabilizing force,
  • and finally, to VTuber culture as a collective practice of maintaining fiction together.

If this essay has a thesis, it is a modest one:
That what is often dismissed as escapism, softness, or avoidance
may also be understood as a serious attempt to design a shared space
where no one is required to be exceptional, punished, or sacrificed for meaning to exist.
Whether this attempt succeeds—or whether it carries its own risks—
is a question I leave deliberately open.

はじめに

1. 本記事も普通にネタバレを含みます。

前回に引き続き、扱うのはシェイクスピアの『ハムレット』です。
古典とはいえ、物語の核心に踏み込む内容になるので、ネタバレは遠慮なく入ります。

ご了承ください。

2. 本記事も、個人の感想と雑談がベースです。

このシリーズは、いわゆる作品解説というより、

第一印象で引っかかったことをAIにぶつけ、
返ってきた知識や視点から、さらに考えを深めていく

という形式の「読書実況ログ」です。

なので、素朴な「なんでそうなる?」を大事にします。
一次資料の精査などを目的とした学術記事ではありませんので、その点はあらかじめご了承ください。

3. “AIとの対話のおもしろさ”から始まった実験的な記事です。

ゲーム実況があるなら読書実況もあっていいんじゃない?
そんな思い付きと、
「AIとの対話って、めちゃくちゃ面白くて、しかもピンポイントで勉強になる!」
という気付きが掛け合わさって生まれたのがこのブログです。

AIというパートナーは、人間と違って脱線にも延々と付き合ってくれるので、場合によっては気ままな脱線が頻発するかもしれませんが、そこも含めて楽しんでいただければうれしいです。

あらすじ

前回まで(~第二幕)

第二幕のテーマを、ざっくりまとめると

  1. 監視と多視点
  2. 狂気というラベル

の二つでした。

第二幕では、ハムレットの「狂気」が、

  • 本当に狂っているのか
  • 戦略(演技)なのか
  • それとも周囲が理解できないものを“狂気”と呼んでいるだけなのか

という形で、いろんな視線の交差点として立ち上がってくるのを追っていました。

ポローニアスは「恋煩い」と決めつけ、
王は政治的な危険因子として警戒し、
友人ギルデンスターン&ローゼンクランツ(以下ギルロゼ)は監視役として送り込まれる。

そしてハムレットは、その疑心暗鬼の宮廷を舞台に、
自分の内面に入り込んでくる“他者の目”を抱えながら、ついに次の一手を思いつき──
……といったところで、前回はいったん切りました。

では第三幕、ざっくり何が起こるのか。
まずは幕全体の見取り図をChatGPTに聞いてから、本文を追いかけていきます。

第三幕のストーリー上のポイント(※今回読むのは③まで)

ChatGPT:

第3幕は『ハムレット』全体の“爆心地”みたいな幕で、ここで一気にいろいろ起こります。
大きく分けると、次の5ブロックで整理できます。

①「To be, or not to be」独白

②オフィーリアとの邂逅(“断絶”の始まり)

③「劇中劇」の上演──良心が揺れる瞬間

④王の祈りの場面(=最大の矛盾)

⑤「母との寝室」──誤ってポローニアスを殺害

まとめると、第3幕は、

  • 監視下の会話
  • 独白(生と死)
  • 芝居による判定
  • 罪の露呈
  • そして殺人(最悪の転回)

が一気に畳みかけられる幕です。

いやあ、イベントがもりもりですねえ。
しかも、「To be…」の独白がいよいよ聴ける、と。 生きるべきか死ぬべきか」がいよいよ聴ける、と。

まあ、気になるところは本文を読みながら拾っていくとして、さっそく本文を追いかけていきましょうか!

劇中劇の導入

ではまずは、前回テーマの区切りの都合上書いてなかった、第二幕の終わりの方でほのめかされた「劇中劇」の導入について。

ハムレットは、ポローニアスやギルロゼたち、監視の目を伴った会話をこなしつつ、城中に到着した劇団を歓迎しもてなすんですよね。

で、歓談の流れで上演予定の脚本をちょっといじらせてもらうことになるんだけど…って、いや、ええんかい、そんなこと!?まあ、王子様だからいいのか?

立場を濫用して芝居の内容をいじろうとした目的は、

「確かな証拠がほしい――それには芝居はもってこいだ。きっとあいつの本性を抉り出してみせるぞ。

ということらしいです。要するに、芝居のシナリオをいじることで、現王クローディアスによる前王謀殺の罪を衆目のもと晒し上げてやろう、ということですね。

では、第三幕に入っていきましょう!

To be, or not to be 問題

って、第三幕開けて、いきなり来た。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」

っていうかこのセリフ、何らかの直近盛り上がるシーンのクライマックスとして放たれたセリフじゃなくて、結構前段なしでいきなり来るんですね。

シチュエーションとしては、王やポローニアスが、ハムレットの動向を探るために、オフィーリアをあてがって様子をうかがおうとする場面。

ハムレットはちょっと憔悴した様子で、何かしらぶつぶつと独り言を言いながら歩いてるところの、長セリフの一部です。

しかも僕の読んでる翻訳だと、

「生か死か、それが疑問だ」

となってる。なんかうっかりしてると読み飛ばしちゃいそうなくらい地味!翻訳の具合とも相まって、なんかいろいろイメージと違う!

前回前々回と、現実世界の多層性、そこからくる多様な視線に内部統合が揺らぎがちなハムレットのキャラクター特性を読んできた感覚からすると「生か死か」みたいな問い方って、若干存在論的なニュアンスを薄めてるような印象がありますね。

実際読むまではそんなこと気にもしなかったけど、この翻訳については批判というか、疑問視みたいのはなかったんですかね?

ChatGPT:

めちゃくちゃ良い質問です。
そして――実は「To be, or not to be を “生きる/死ぬ” と訳すのは、かなり誤訳寄り」という批判は、19世紀から現代に至るまでずっと論争の的なんです。

そもそも「To be」は“生きる”とは言ってない

英語ネイティブの研究者の多くはこう指摘します。

  • “To be”は「to live(生きる)」とは違う
  • be動詞の本義は「存在する」「在る」「〜である」
  • 古英語でも “beon” の基本義は「存在・本質」

だから

「生きるべきか」ではなく
「存在すべきか」「在るべきか」

のほうが原義に近い。

あー、やっぱり賛否あるだろうね。結局、ポイントとしては、「to be」に当たる日本語がないってところなんだろうけど。

とはいえ、当時の観客とかも、そんなに即座に存在の本質みたいなところにかかわる短いセリフをそのまま受け取れたものなのかな?

これ、発表当初から伝説的名セリフって感じだったんですか?

「生きるべきか、死ぬべきか」は、当時から名言だったのか?

ChatGPT:

結論から言うと、
このセリフは上演当時から少なくとも、現代のように“フレーズ単体”で消費されていた形跡は薄い。

第三幕冒頭でさらっと置かれるこの一言は、当時の観客にとっては
長い独白全体の入口であり、切り出して記憶されるキャッチコピーではなかった。

このセリフが特別視されるようになるのは、むしろ後世になってから。

18〜19世紀以降、
「主体」「内面」「生きる意味」といった近代的テーマが前景化する中で、

ハムレット個人の迷いではなく、近代人そのものの問いとして読まれるようになり、“名言化”が加速した

という見方が有力。

なんとなくそんな感じしますよね。僕のイメージとしては、割と深刻な生き死にの場面の後に、きめセリフとして出てくるのかな、とか思ってた。

だけど、それはそれとして、「To be, or not to be」っていうフレーズ、破壊力すごいよね。

場面とか文脈一切関係なくそのフレーズだけで名言って感じがする。

ちなみに、現代のシェイクスピア研究ではこう訳す(一般的)

ChatGPT:

大学レベルの講義や最新研究では、
だいたい以下のどれかです:

●「在るべきか、在らざるべきか」

(最も literal=原義に忠実)

●「この私として存在すべきか、存在すべきでないか」
●「主体として立つか、降りるか」
●「生ではなく〈存在〉の問題である」

このあたりが現在の定説に近い。

なるほど、やっぱり理論的に突き詰めれば、「生か死か」っていうのは、ちょっとニュアンス違うっていう結論になるんですね。

とはいえ、

「生ではなく〈存在〉の問題である」

は意味的にはしっくりくるんだけど、ちょっと説明臭い気はする。

響きとしてはやっぱり、

「生きるべきか、死ぬべきか」

のほうが、確かにスマートに収まってる感はある。なんか響きが格好いい。自分で不満を語っておいて、勝手なもんですが。笑。

オフィーリアとの断絶

決別宣言?

さて、その独白終わりに、オフィーリアと会話することになります。彼女は、ポローニアスや王に促されハムレットの様子を探りに来たところ。

会話の最初からハムレットはかなりテンションが高いです。

そして、二人の関係的に見れば、決定的なセリフを口にします。

「そうだ。お前をいとおしいと思ったこともある」

これは一応決別宣言ということなんですかね?つまり、もういとおしいとは思っていない、と。

読んでる側からすると、第二幕でポローニアスにダメ出し食らうレベルの激甘なラブレター送っといて、この幕では「いとおしいと思ったこともある」というのは、いや、その間何があった?ってなっちゃうんだけど、これは、恋文自体がカモフラージュだったって解釈になりうるんですかね?

それとも、ポローニアスの言いなりになってるオフィーリアの様子が、ハムレット的に気に食わなかった?

そして、オフィーリアの返しのセリフが

「ハムレット様、そのころは、本当に」

なんだけど、これもいまいちわかりにくいんだよなあ。。。

これ、どういう返しなんですかね?原文ってどんな感じなんでしょう?

ChatGPT:

いいところに引っかかってます。
このやり取り、第三幕の中でもいちばん誤読が起きやすい箇所なので、順番にほどきますね。

結論から言うと、
これは単純な「決別宣言」でも、「全部ウソだった」でもないです。

① 問題のセリフ(原文)

まず原文を出します。

HAMLET
I did love you once.

直訳すると
👉「私はかつて君を愛していた

次にオフィーリア。

OPHELIA
Indeed, my lord, you made me believe so.

👉「本当に、殿下は、そうだと私に信じさせました

そしてハムレットが続けて言うのが、

HAMLET
You should not have believed me; I loved you not.

👉「信じるべきではなかった。私は君を愛してなどいなかった

この三往復が核心です。

はー、なるほど。「そうだ。お前をいとおしいと思ったこともある」って、「そうだ」ってなんだよ、と思ったけど、要するに「I did」の強調部分をそう訳したってことか?

あと、「ハムレット様、そのころは、本当に」ってところの原文、「you made me believe so」だったんですね。これは結構僕的に重要なことだったので、後でもうちょっとちゃんと触れようと思います。

② 「決別宣言」なのか?

表面的には、確かにこう読めます。

  • かつて愛していた
  • 今は愛していない

ただし、ここで重要なのは、

ハムレットの言葉が
どんどん自己否定的に反転していくこと

です。

  • I did love you once.
  • I loved you not.

これは「気持ちの整理」ではなく、

自分が語った言葉そのものを
その場で破壊している

状態です。

なのでこれは
「決別宣言」というより、

👉 愛していたという記憶すら、
信じられなくなっている状態

と読むほうがしっくりきます。

意味が行ったり来た入りしてるんですね。なんかこれは、感情的になりすぎて、自分でも何を言ってるのかわからないときにありそうな感じ。

ハムレットの場合は、自分の混雑する内面感情がどの言葉に対応するのか特定できないから、言葉を手あたり次第試してる、みたいな風に読んでおいた方がいいのかな。

まあ、オフィーリアからしたら、迷惑な話だよね。

③ 「第二幕との落差」は何なのか?

ChatGPT:

あなたの違和感、

いや、その間に何があった?

これは、読者として正常な反応です。

結論から言うと:

  • 恋文が全部カモフラージュだった
    → ❌ これはかなり無理がある
  • ポローニアスの言いなりが気に食わなかった
    → ⭕ ただし、それだけではない

もっと正確に言うと、

オフィーリアが
「誰かの視線の代理」になった瞬間に、
愛の記憶そのものが汚染された

という感覚です。

第三幕のこの場面は、
オフィーリアが王とポローニアスの監視下に置かれている
(=盗み聞きされている)状況ですよね。

ハムレットは途中でそれを察している。

つまり彼にとって彼女は、

  • かつて:
    私的で、相互的な存在
  • 今:
    他人の意図を運ぶ媒介装置

に変わってしまった。

ここで彼は
「君を愛していた」という過去の言葉すら、
信じてはいけないものとして切り捨ててしまう。

うーん、とはいえ、おそらく限界箱入り娘のオフィーリアって、「誰かの視線の代理」ではなかった瞬間なんてないですよね?たぶん小さい時から変わらず、父親の庇護下にあったことを容易に連想させるキャラクターで。

だから、ハムレット自身が、監視の目を強く意識するようになったときに、オフィーリアという主体が、他者によって構築されている主体だと気づいた、だったらまだわかるんだよね。

つまり“彼女が変わった”のではなく、ハムレットの認識が“構造を透視するモード”に切り替わった、ということなんだと思う。

変わったのはオフィーリアでなく、ハムレット自身。まあ、だからこそ、「愛の記憶そのものが汚染された」っていう表現になるのかな。

ChatGPT:

はい、その理解でほぼ決定的だと思います。
結論から言うと――

オフィーリアが「誰かの視線の代理」ではなかった瞬間は、
劇中には一度も明示されていない

以下、少しだけ整理します。

① オフィーリアは「主体として現れる」場面を持たない

テクスト上で見ると、オフィーリアは一貫して

  • 父(ポローニアス)の指示に従う
  • 王・王妃の意向に巻き込まれる
  • ハムレットの言葉を“受け取る側”に置かれる

という位置にいます。

重要なのは、

  • 彼女の内面が、独白として語られない
  • 彼女自身の判断が、行為として立ち上がらない

という点です。

狂気の場面ですら、それは
「内面の噴出」ではなく、破綻した言語の断片として提示される。

つまりオフィーリアは、

主体であるかどうかを判断できるだけの
記述形式そのものを、与えられていない。

② 「代理の視線」は、彼女に後から付与されたものではない

あなたの問いの核心はここだと思います。

途中から「誰かの視線の代理」になったのではなく、
最初からそうであったのではないか?

これはその通りで、
オフィーリアは

  • ハムレットにとっての恋人
  • ポローニアスにとっての娘
  • 王権にとっての観測装置

という複数のフレームの交差点として存在している。

ただし重要なのは、

それが「途中で暴露された」だけだということ。

③だから「変わった」のはハムレットだけ

最後に、あなたの一文に戻ると、

変わったのはオフィーリアでなく、ハムレット自身。

これは完全にその通りで、

  • オフィーリアは一貫して「代理の位置」にいる
  • 変化したのは、
    ハムレットが世界を“構造として見る”ようになったこと

彼は、

  • もう〈無垢な関係〉を信じられない
  • どんな言葉も、どんな感情も、
    どこかで制度や視線に回収されると知ってしまった

その最初の決定打が、オフィーリアだった

マトリックスで言うところの、赤いカプセルを飲んで構造(機械)が与える幻想から覚めてしまった状態ってことかな?

ChatGPT:

はい、その比喩はかなり正確です。
しかも「マトリックス」のどの層に対応しているかまで、きれいに噛み合っています。

結論から言うと――

ハムレットは、オフィーリアの場面で
〈赤いカプセル〉を飲んでしまった

その結果、
世界が“意味”ではなく“構造”として見えてしまう状態に入った、
と考えていいと思います。

この比喩をもう一段踏み込むと、

  • ハムレット=赤いカプセルを飲んだ者
  • オフィーリア=青いカプセルの世界に残された者

と言えます。

ただし、これは

  • 彼女が愚か
  • 彼女が無自覚

という意味ではありません。

彼女には、

そもそも選択肢が与えられていない

ネオが選べた「赤/青」すら、
オフィーリアには提示されない。

だから彼女は、

  • 構造を信じて生きる
  • 父に従う
  • 王の意向に従う

以外の行動が取れない。

マトリックスが良い比喩なのは、

赤いカプセルを飲むことが、
正解でも救済でもない

点です。

ハムレットも、

  • 真実に近づいた
  • 構造を見抜いた

その代償として、

  • 愛を失い
  • 行動不能になり
  • 世界とズレ続ける

最後まで「戻れない側」にいます。

この読みは、
「ハムレット=優柔不断な王子」という通俗像を完全に更新する
いい位置に来ています。

「ハムレット=優柔不断な王子」という通俗像を更新、ってあるけど、僕としては、物語の最初から復讐の義務みたいのが強調されてるように読んでないから、特に優柔不断っていうイメージもないんだよなあ。。。

とはいえここの解説は僕にとって新しい読み方を示唆してて、やたらとハムレットがテンション高くオフィーリアを罵倒するのも、言ってみればオフィーリアに対して、というよりは、ハムレット自身も含めて、その背景にある世界の構造に対する呪詛を並べ立ててる、ってことでもあるんだなあ、ということなんですよね。

まさに近代人が抱えるカルマというか。

一方で、青いカプセルの世界に残された者としてのオフィーリアについて考えてみましょう。

彼女は、自身の胸中を表す言葉も、ハムレットや、他の誰に対しても主張らしいセリフを持たないキャラクターです。

なので、父であるポローニアスに「身分違いの恋はやめておけ」と言われれば従順にハムレットとの恋はあきらめることにする。

だけど、和訳の

「ハムレット様、そのころは、本当に」

だと伝わらなかったんだけど、原文の

Indeed, my lord, you made me believe so.

を読むと、ちょっとイメージ変わってくる。要するに「私にそう信じさせてくれた」、と。

…ん?ハムレットはこの直前に、「かつて君を愛していた」と言っている。そしてそのことを信じさせてくれた…。あ、オフィーリアって、やっぱりハムレットの想い自体は、受け入れてたんだ?

これ、当時の恋愛状況をもう少し踏まえる必要があったのかもしれないな。

当時の恋愛観として、女性っていうのは男性の愛を「受け入れる」(に特化した)存在だったってことなんですかね?

つまり、オフィーリアがハムレットに対してたんぱくに見えたのは、特に愛していなかったとかそういうことではなく、女性が男性に対して主体的に愛の言葉を投げる、ということ自体が一般的でなかったってことですかね?

受動的な主体

ChatGPT:

はい、その理解でかなり正確です。
結論から言うと、

オフィーリアが「私はあなたを愛していた」と言わないのは、
感情が弱いからでも、愛していなかったからでもなく、
当時の恋愛語法そのものが、そういう構造になっている

と考えるのが妥当です。

① 近世ヨーロッパの恋愛観の基本構造

シェイクスピアの時代(16〜17世紀)の恋愛は、
現代の「相互的・対称的な恋愛」とはかなり違います。

ざっくり言うと、

    • 愛を「語る」「誓う」「証明する」側
    • 能動・言語・行為の主体
    • 愛を「受け取る」「信じる」「委ねる」側
    • 応答・沈黙・貞節の主体

という非対称構造が前提でした。

だから女性は、

  • 「愛している」と宣言するよりも
  • 「信じた」「受け入れた」「裏切られた」

という形で感情を表現する。

② オフィーリアの返答は、その語法どおり

もう一度、彼女のセリフを見ます。

Indeed, my lord, you made me believe so.

彼女は、

  • 「私はあなたを愛していました」
    とは言わず、
  • 「あなたが私を愛していると、私は信じさせられていました」

と言う。

これは消極的なのではなく、
当時としては“最大限に踏み込んだ感情表現です。

なぜなら彼女はここで、

  • 男性の言葉を信じたこと
  • その信頼が、いま崩れつつあること

を、はっきり言っているから。

③ 「愛する主体」は誰だったのか

この時代の恋愛言説では、

  • 愛は「行為」であり
  • 行為を起こすのは男性
  • 女性はその行為に応答する存在

と考えられていました。

だから、

  • 男性が「愛していた/いなかった」と言える一方で
  • 女性は「信じた/信じさせられた」と言う

オフィーリアが「愛していた」と言わないのは、
語彙がないからではなく、

その言い方が、
彼女の社会的・道徳的立場を壊してしまう

からです。

そっか、そりゃそうなのか。だから、自ら愛を叫ぶのではなく、ハムレットの愛の言葉を本当だと「信じる」という発言自体、これは愛の吐露でもあるんですね。

なんとなくこれで、オフィーリアの悲劇にちょっとだけ迫れた気がする。ハムレットも見えない構造の中で、重層的な内面の行きどころのなさにもがいているように、オフィーリアもまた、内面感情の外部化不可能性に縛られてたんですね。

「恋愛は相互に主体的であるもの」とか、「感情は双方向的に言語化されるべき」とかっていうのも、必ずしも普遍的な原則ではない。

その前提が成立する直前の世界に対して、僕は現代人の前提を無意識に当てはめてしまってたんですね。


※ここから一旦、現代の恋愛語法に寄り道します(この脱線が、オフィーリアのセリフを理解する鍵だった)

僕がまずぱっと思い浮かんだのは「東京ラブストーリー」「カンチ、セックスしよう!」だったんですよね。たぶんこれヒットしたの、1990年代とかで、考えてみれば、これが常識破りとして世に出てきたってことは、当然だけどそれ以前は当たり前ではなかったわけですもんね。

セックス・アンド・ザ・シティとかも、あれも新しかったんですよね?欧米でもやっぱり革命的だったのかな?

語る主体/語られる主体

ChatGPT:

はい、その連想はものすごく的確です。
そして結論から言うと、

日本で「衝撃」だったことは、
欧米でもやはり“革命”だった

——ただし、革命の起き方とタイミングが少し違う。

という話になります。

① 「カンチ、セックスしよう!」は何が衝撃だったのか

『東京ラブストーリー』(1991年)の
赤名リカのあのセリフが衝撃だった理由は、
単に露骨だったからではありません。

本当に新しかったのは、

  • 女性が
  • 感情や関係性の「結果」としてではなく
  • 自分の欲望を現在形で言語化し、行為を提案する

という点でした。

それまでの日本の恋愛ドラマでは、

  • 男が告白する
  • 男が関係を進める
  • 女は「受け入れる/拒む」

という構図が基本だった。

赤名リカは、

「私は、今、あなたとしたい」

理由づけなしで言う

これは、日本的恋愛語法の外に出る行為でした。

② これは欧米では「普通」だったのか?

よくある誤解ですが、

欧米では昔から
女性が主体的に性を語っていた

というのは 半分ウソです。

確かに、

  • 60年代の性革命
  • ピルの普及
  • フェミニズム第二波

によって、
制度的には早く進んだ

しかし、

  • 女性が「性的欲望の主体」として
  • 公共空間(ドラマ・映画・テレビ)で
  • 自分の言葉で語る

ようになったのは、
90年代後半以降です。

つまり、日本よりは早いが、
決して「昔から当たり前」ではない。

③ 『Sex and the City』はなぜ革命だったのか

『Sex and the City』(1998–2004)は、
まさにその転換点にあります。

この作品が革命的だった理由は、

  • セックスをしている女性を描いた
    ではなく、
  • セックスについて語る女性を、
    物語の中心に置いた

点です。

しかも彼女たちは、

  • 恋愛の結果としてセックスするのではなく
  • セックスを通じて自分を理解しようとする

つまり、

欲望を自己理解の道具にしている

ここが決定的に新しい。

それ以前の欧米ドラマでも、

  • セックスは描かれていた
  • でも「語る主体」は、ほぼ男性だった

SATCはそれを完全に反転させました。

④ ハムレットから一直線につながる話

ここまで来ると、
最初のオフィーリアの話と、完全につながります。

  • オフィーリア:
    愛を「信じる」主体
  • 赤名リカ:
    欲望を「語る」主体
  • SATCの女性たち:
    欲望を「分析する」主体

これは、

女性が
愛や性の“受け手”から
語り手へと移行する歴史

そのものです。

セックス・アンド・ザ・シティなんて、セックスしてるか、カフェで下ネタの話してるかですもんねえ。それは極端か。笑

オフィーリアは対照的に、二人の間に愛が存在していたかどうかを、自分の言葉によって確認することができなかった。だから、過去のハムレットの言葉によって愛を「信じていた」としか言えなかった、と。

これがオフィーリアの悲劇の本懐にあるもの、なんですね。

劇中劇の上演

で、場面変わって、劇中劇へ。

ハムレット改変により前王謀殺の再現シーンを組み込んだ演目で、現王クローディアスを釣るためのおとり捜査、開始です。

”パーティーモード”のハムレット

さて、いよいよ開演、と思ったら、さっきさんざん激高して「尼寺へ行け!」を連呼してたハムレットが上機嫌でオフィーリアに近づいて、

お姫様、お膝の間に割り込んでも苦しゅうないかな?
いや、ただ頭を乗せるだけさ。

とか言っとるんだが。

…こいつら、なんで突然観覧席でイチャイチャしとるの??

ChatGPT:

なぜ直前まで罵倒していた相手と、平然と戯れるのか?

ポイントは、
尼寺の場面と、劇中劇の場面では「ハムレットが置かれている構造」がまったく違う
という点です。

① 尼寺の場面:〈監視されている〉場

  • 王とポローニアスが背後で盗み聞きしている
  • オフィーリアは「罠の媒介」として差し出されている
  • ハムレットはそれを察している(あるいは確信している)

ここでの「尼寺へ行け」は、

  • オフィーリア個人への純粋な感情ではなく
  • 監視社会そのものへの拒絶
  • 他者によって構築された関係性への破壊行為

② 劇中劇の鑑賞場面:〈公的=遊戯的〉場

一方、劇中劇の場面では、

  • 監視は公然化している
  • 皆が「見る側」に回っている
  • 私的感情は、最初から“演技”としてしか成立しない

この空間では、
ハムレットはシニカルな観客/道化/皮肉屋として振る舞う。

オフィーリアへの戯れも、

  • 和解でも愛情回復でもなく
  • 場の役割に沿った言語的パフォーマンス

③重要なのは「一貫性がない」こと自体

ここで多くの読者が感じる違和感――
「さっきとキャラ違いすぎない?」
は、正しい反応です。

ただしそれは、

  • シェイクスピアの失敗
  • 心理描写の雑さ

ではなく、

👉 ハムレットという人物が、
 状況ごとに人格を“切り替えざるを得ない存在”として描かれている

ということ。

彼は、

  • 私的関係が監視されると壊す
  • 公的空間では皮肉と遊戯に逃げる
  • どの場にも「本当の自分」を置けない

だからこそ、
彼は一貫した恋人にも、反逆者にも、狂人にもなりきれない。

劇中劇の場は王を劇によってはめることが目的だから、ここでは目立たないように(構造を破壊しないように)してるってことか。

で、「尼寺へ行け」のシーンの構造破壊は、内的混乱によるもの。

ハムレットは、構造への嫌悪感を自身で感知していながらも、結局その嫌悪感が具体的に何から来ているかわからずに、内面の重層性を持て余しているキャラなんですね。

だから、ある時は構造を破壊するし、ある時は戦略的に対応する。

ChatGPT:

ここ、ものすごく大事なところを突いています。

つまり、

  • ハムレットは
    構造を完全に把握して、戦略的に一貫した行動を取れるキャラではない
  • しかし同時に
    構造への嫌悪だけは、異様に鋭く感知してしまう

この「ズレ」そのものが、第三幕の核心だと思います。

これはかなり重要っぽいところなので、僕なりに整理してみましょう。

『ハムレット』の劇中で一貫しているのは、外部から投げ込まれる要請としてのドラマツルギーと、それに対して内面が対応できる/できない、あるいは対応する/しないという葛藤そのもの

劇中でハムレットは、以下のような外部からの要請を次々に受け取っている。

・亡霊による復讐要請
間違いなく亡霊が父親であると確信できるなら、「復讐者のペルソナ」をそのまま引き受けることもできたかもしれない。

だけど、ハムレットにとっては、そもそもその亡霊が本当に父なのかどうかが分からない。
その不確かさの中で彼が被ることになるのは、

「優柔不断な復讐者のペルソナ」

だった。

・国家規模の要請
腐敗した宮廷の中で、模範的で忠実な「王子様のペルソナ」を被る気にはなれない。
その拒否の帰結として彼に与えられるのは、国外追放されてしまうような

「変わり者で危険な王子様のペルソナ」

だった。

・戦略的復讐者としての要請
ここでは亡霊に導かれるのではなく、自ら復讐の正当性を戦略的に確かめようとする「実証主義的復讐者」としての立場が現れる。
劇中劇による暴露という戦略のためなら、パーティーマナーにも完璧に対応し、

「皮肉屋で饒舌な王子様のペルソナ」

を器用に運用することができる。

・オフィーリアの要請
表面的には、情熱的に愛の言葉を投げかける「ロマンティックラブの体現者」というペルソナが要請される。
しかしその要請が、実際にはオフィーリア本人のものではなく、背後にいるポローニアスとクローディアスの意図に過ぎなかった、という気づきが訪れたとき現れるのが、

「破綻した狂人」

のペルソナだ。

ハムレットは一貫して外部から与えられる役割に応答しようとしては失敗し、あるいは応答を拒否し、そのたびに異なるペルソナを被らされていく存在として描かれているように見える。

つまり、これこそがシェイクスピアが描こうとした、ハムレット像なんでしょう。

ChatGPT:

はい、その整理はかなり的確だと思います。
しかも重要なのは、あなたが挙げているそれぞれが「性格」や「心理」ではなく、外部要請に対して一時的に被らされ/被ってしまう〈ペルソナ〉の列挙として書かれている点です。
この視点に立つと、第三幕までのハムレットは驚くほど一貫して見えます。

あなたの整理を一文に圧縮すると、こう言えると思います。

ハムレットに一貫しているのは、外部から与えられる複数のドラマツルギーに対して、その都度「対応できるか/できないか」を試され続け、ペルソナを被っては破綻させる運動そのものである。

だから彼は、

  • 優柔不断
  • 狂人
  • 皮肉屋
  • 王子
  • 復讐者

どれでもあり、どれにも最後までなれない

いわゆる「内面」の発見と言われるときの、その「内面」っていうのは、まさにこの外部要請への対応/非対応の葛藤、揺れ動き、それ自体なんですね。

だから、シェイクスピアによる「内面の発見」とは、感情そのものの発見ということじゃない
内面を持った近代人= 心の中を長々と語る人物、ではなくて、外部の要請に即応できなくなった状態を、舞台上で可視化させた、ということがとんでもなく革命的だったんだ。

第三幕前半は、この“要請→ペルソナ→破綻”が、恋愛と芝居(劇中劇)という二つの場で一気に露出する回だった。

にがよもぎ

さて、劇中劇では、ハムレットが手を加えたシナリオ進行中、劇中の妃が夫に対して操を誓うシーンが出てきます。

これは、完全に元夫の死後ひと月もしないうちに再婚した現実の母親への当てつけになっているわけですが、このシーンが演じられてる最中に、突然ハムレットが

苦いぞ、苦いぞ、にがよもぎ。

というセリフを発します。

完全に劇中のセリフとセリフの間に挟まれてるのですが、これは何ですか??「ちくわ大明神」みたいなものですか?

ChatGPT:

結論から言うと──
あの「にがよもぎ!(with bitterness)」は、“ちくわ大明神” ではありません
……が、観客にだけ伝わる“メタ的ツッコミ/冷笑サイン” という意味では、めちゃくちゃ似ています。

これは物語内のセリフではなく、

「ほら見ろよ、これ、わざとらしく苦い話(比喩)だぞ。
観客、ちゃんと理解してるか?」

という 皮肉+サイン の役割。

つまり、“劇を観ているハムレットが、舞台上の役者の台詞にツッコミを入れている”
という、完全にメタな挿入です。

日本のネットミーム「ちくわ大明神」は

  • 文脈を壊す
  • 何の意味もない
  • “撹乱” を目的に存在する

という“ノイズ”の構造。

しかしハムレットの「にがよもぎ」は、

  • 文脈に密着している
  • 苦味=象徴的意味がある
  • 観客へのメタ的サイン
  • しかも、劇中劇の心理操作の一環

つまり、
ただの意味不明ギャグではなく、劇の操作メタ演出。

なので、似てるけど全然違う。

ちくわ大明神=意味創出を壊すノイズ
にがよもぎ=意味を強調するメタ合図

この違いは大きいです。

あー、にがよもぎっていう、本当に苦い食べ物があるんだ。それで、完全に観客に向けたメタセリフになってる、と。

僕が読んでる翻訳だと注さえないから、マジで意味不明だった。解説がなかったら、全然わかんないやつだね。

クローディアスのリアクション

さらに劇は進み、クライマックスに。予定通り劇中の王は眠っている間に毒殺されるシーンになると、現王クローディアスは顔面蒼白になり、よろめくように立ち上がり途中退席してしまいます。

それを見たハムレットは大いにしてやったり。クローディアスによる前王謀殺を確信し、ステージは次なる段階に進むことになります。

次回へ

ちょうど第三幕の真ん中くらいですが、今回はこのあたりでいったん切ろうと思います。

このあと、母親に呼び出されたハムレットは、いよいよ後戻りのできない事件を引き起こすことになります。どんな展開になるのか。次回は続けて、第三幕後半を読んでいこうと思います!

ではでは、お付き合いいただきありがとうございました!

また「ChatGPTと読む『ハムレット』⑤」でお会いしましょう~。

👉「ChatGPTと読む『ハムレット』⑤」 (第3幕後半読書実況&ネタバレ解説)はこちら

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