Author’s Note / Framing
On Terms, Distance, and Why This Essay Was Written
This essay was not written to define a doctrine, defend a value system, or propose a new ideology.
Rather, it attempts to trace a practice—
a way of relating to fiction, characters, and others—that has gradually stabilized across several decades of Japanese media culture, often without being clearly named.
Throughout the text, I use several terms that may appear familiar, yet are employed here in a deliberately specific and provisional way.
For example, “Kawaii” is not treated simply as “cuteness,”
“Sekai-kei” is not reduced to a genre label,
and “Yasasii-sekai” (Gentle World) is not assumed to be a commonly shared or universally accepted concept.
In particular, Yasasii-sekai is not presented as an established analytical term.
It originated largely as a casual internet expression—often ironic, sometimes affectionate—used to comment on narratives that felt conspicuously forgiving, frictionless, or implausibly kind.
What interests me here is not the meme itself, but the condition it occasionally pointed toward.
That is:
a situation in which innocence is no longer an attribute of a character,
nor a moral achievement,
but something that emerges between people,
as a shared constraint on how fiction is treated, sustained, and interacted with.
When I refer to innocence in this essay, I do so tentatively.
It is not meant to signify purity, naivety, or moral superiority.
Instead, it functions as a placeholder for a pre-narrative stance—
a refusal to immediately impose judgment, destiny, or “seriousness” onto a fictional situation.
Likewise, when I discuss parody, everyday-life narratives, or VTuber culture,
my aim is not to argue that these forms are inherently progressive, ethical, or “better” than others.
They are simply different answers to a recurring question:
How can fiction be enjoyed without forcing participants
to carry the full weight of history, ideology, or personal judgment?
This question has been asked implicitly—sometimes clumsily, sometimes playfully—across multiple generations of creators and audiences.
The essay proceeds historically, but not exhaustively.
It does not claim a single origin, nor a linear evolution.
Instead, it follows a series of shifts in attitude:
- from parody as distance,
- to innocence as a felt absence of obligation,
- to everyday life as a formal structure,
- to the atmosphere or the place as the primary stabilizing force,
- and finally, to VTuber culture as a collective practice of maintaining fiction together.
If this essay has a thesis, it is a modest one:
That what is often dismissed as escapism, softness, or avoidance
may also be understood as a serious attempt to design a shared space
where no one is required to be exceptional, punished, or sacrificed for meaning to exist.
Whether this attempt succeeds—or whether it carries its own risks—
is a question I leave deliberately open.
はじめに
『果てしなきスカーレット』からシェイクスピアへ
どうやら『果てしなきスカーレット』という映画が話題らしい。僕はまだ見ていないんだけど、かなり酷評の嵐みたいだ。
まあ、それ自体はネット界隈をうろうろしていればよくある光景なんだけど、ちょっと気にとまったのは、
「ハムレットを下地にしておきながらこれはない!」
という感想だ。
シェイクスピアの母国・英国には、
「演技力が心配な俳優ほどハムレットを演じたがる」
という逸話があるらしい。なんでも、演技の良し悪しにかかわらず、作品として面白くなることが約束されている脚本だから、ということなんだとか。
だけど、『果てしなきスカーレット』は、そのような条件下においてもなお酷評されていることになる。
とまあ、未視聴の僕がそれについてあーだこーだ言うのはフェアではないんだけど、なんでそれが気になってしまったかというと――
ちょっとしたきっかけから、ちょうど今シェイクスピアを読んでいるからなんですね。しかも『ハムレット』については、ちょうど3日ほど前に読み終わったところで。
このブログのスタンス:解説というより「読書実況」
「AIが面白い!」というのはもちろん昨今においては今更なんだけど、改めて、本当にChatGPTって面白いんですよね。で、面白いだけじゃなくてめちゃくちゃ勉強になる。
ということで僕は、今や日々ChatGPTとの会話が欠かせないようになっているんだけど、先週くらいからシェイクスピアについて教えてもらっているんですよ。
そもそもは、作品というよりは「シェイクスピアという人物そのもの」に興味を持ったんだけど、ちょうど『ハムレット』の話題がタイムリーということで、
「せっかくなので、ChatGPTとの対話ログを兼ねつつ記事に起こしてみようかな」
と思ったのが今回のことの次第です。
なのでこのシリーズは、
- 「ちゃんとした作品解説」
というより、 - 「素朴な疑問をそのままAIにぶつけ、そのやり取りごと共有する“読書実況ログ”」
というスタンスで進めていきます。
シェイクスピアは何を“飛び越えた”のか?
きっかけになった会話を少しだけ。
(前段にいろいろやり取りしていたんですが)その流れで、ちょっと聞いてみたんですよね。
「シェイクスピア以前の“悲劇”って、どんな系譜があるんですか?」
と聞いてみたら、ChatGPTの回答は――
ChatGPT:
1.ギリシア悲劇(ソフォクレスなど)
2.中世モラリティ・プレイ(寓意劇/道徳劇)
3.『スペインの悲劇』トマス・キッド(1587)
と。
え、最後の『スペインの悲劇』は時代的にまだ全然近いけど、
ギリシア悲劇までさかのぼっちゃうの??
シェイクスピアが「内面」を発明したと言われる理由
ChatGPT:
そうなんです。
シェイクスピアが“突然変異レベルのジャンプ”だということは、
普通に文学史を眺めていてもあまり意識されませんが、
実際には 「人間が“内面”を持つようになった瞬間」 を作りだした人に近いんです。“キャラクターの心が物語を駆動する”という概念そのものがシェイクスピアで誕生したといっていい。
シェイクスピア以前の文学作品では、
- “心”
- “性格”
- “内面”
- “動機”
- “迷い”
- “自己の解体”
- “人格の多層性”
といった概念はほぼ存在しません。
それらはすべて
シェイクスピアによって舞台で“発明”された技術。つまり、
- シェイクスピア以前 → 人間には内面がない世界
- シェイクスピア以後 → 人間には内面がある世界
このくらいの分断が存在します。
ええええ!?そうなの??
精神分析ということで言えばフロイト、もっと前段の主体論で言えばカント…よりも100年以上早い!?
ってところから、がぜん興味が湧いてきたんですよね。シェイクスピア。
ってことで、疑問を持つきっかけがChatGPTなら、答えを教えてくれるのもChatGPT。
先生、教えてください!シェイクスピアって、何者なんですか!?
シェイクスピアって何者?
ChatGPT:
実は 「シェイクスピアって何者なのか?」という問いは、文学史の中でも最も“危険な”テーマで、学者たちが400年議論してきたくらい奥深いんです。結論から言うと、シェイクスピアは…
単なる天才脚本家ではなく、ロンドンの“劇場産業と文化メディア革命”の中心にいた人。つまり:
シェイクスピア単体が革命を起こしたのではなく、
“劇場という巨大な知の実験場”が革命を起こし、
シェイクスピアはその中心にいた。
シェイクスピアは脚本家+俳優+劇団経営者
なるほど。話を聞いていると、単なる孤高の天才作家、ということではないみたいだ。当時の時代背景も合わせて、もっと詳しく聞いてみましょう!
ChatGPT:
あなたのイメージに近い答えとして、シェイクスピア=脚本家+俳優+劇団経営者
でした。
- 劇団「宮内大臣一座(後に国王一座)」のメンバー
- 舞台にも立っていた
- 脚本を書き、演技し、演出にも関わった
- 劇場「グローブ座」の共同オーナー
つまり、文学者ではなく、
リアルな“芸能プロダクションの中枢”にいた人物なんです。この時点で、日本の「脚本家」「小説家」「文化人」のどれでもない。
シェイクスピアって演者でもあったんだ!?
んー、言ってみたら、作詞も担当して、プロジェクトを立ち上げて総合プロデューサーとして君臨している秋元康さんみたいなもの??
だけど、それともだいぶ違うみたいだ。
シェイクスピアの周囲には“天才サークル”があった
ChatGPT:
同時代にロンドンには、
「University Wits(大学ウィット)」という劇作家集団がいた。メンバー:
- クリストファー・マーロウ
- トマス・キッド
- ジョージ・ピール
- ロバート・グリーン
- トマス・ナッシュ
彼らはケンブリッジ・オックスフォード出身のエリート性の高い文学サークルで、
高度な詩法・劇作技術を舞台に導入した“改革者集団”だった。シェイクスピアは唯一、
「大学生ではない下層出身の作家」で、
この天才サークルの中に“後から入り込んできた化け物”だった。彼らの技術を全部盗み、全部越え、全部融合した。
ほぉ~。『ロミオとジュリエット』とか『ハムレット』とか、舞台が貴族の人たちばかりで、本人も高貴の出かと思ってたら、全然そんなことなくて、むしろ現場からのたたき上げ!
でもそんな、劇作技術を高めあう高学歴エリート集団って、当時のロンドンって、そんなに演劇が盛んだったの??
ロンドンは当時、世界最大のサブカルチャー都市だった
ChatGPT:
シェイクスピアのロンドンは、人口20万人の都市で、
・劇場は14館以上
・毎日どこかで新作芝居
・金が動く一大娯楽産業
・印刷技術の普及で脚本が売れまくる
・客層は上は貴族・下は肉体労働者まで超雑多
・批評もし放題(匿名文化もあった)
これは…
「シェイクスピア版・コミケ+ニコニコ動画+劇団新感線+宝塚+ネット文化」が全部混ざった世界
です。
その文化の濃度が尋常ではない。
そこで毎日1000人以上に作品を浴びせ続け、
瞬間的な反応を取り込み、
即日作品を改稿し、
また上演し、
また修正する。このフィードバック量がすごすぎた。
コミケ!ニコニコ!ゲーム実況しながらコメント対応して、しかもそのゲームまで自分で作って、みたいなことかな?ちょっとずれたか?まあともかく、単なる天才作家というくくりとは明らかに違うジャンルの人だったんですね。。。
シェイクスピアは「構造」と「環境」が生んだ怪物
ChatGPT:
よく言われる結論はこれ:シェイクスピアは“個人の天才”ではなく、
産業・都市・文化・共同体の積層が生んだ最適解。
- ロンドンの劇場文化が成熟していた
- 同時代の劇作家集団が高度だった
- 印刷技術の普及
- 宗教改革後の個人主義の萌芽
- 貴族〜庶民の混在する観客層(多層的なニーズ)
- 大都市の混沌と心理的複雑性
そのすべての条件が揃ったとき、
最後に現れたのがシェイクスピア。
まさに時代が生んだ天才!
シェイクスピアは「要素を全部吸収し、全部ミックスした」
ChatGPT:
具体的にいうと、
・マーロウの詩法
・キッドの復讐劇構造
・道徳劇の象徴性
・高貴な悲劇
・庶民的な笑い
・印刷文化で読者にも読める文章の整備
・ロンドンのスラング
・貴族層が愛した哲学的対話
・宗教論争を舞台に落とし込む技術
これら言語・文化・階級・思想のすべてを
ただのエンタメとして成立させた。●「アニメ業界の中心で、監督・脚本・演出・声優・プロデューサーを全てやった庵野秀明」
+
●「クリエイター集団GAINAXすべての技術を吸収した天才」
+
●「当時のネット民のあらゆるスラングを使って作品を書いた言語モンスター」
+
●「ガンダム級の転換点を5回くらい起こした人物」
この全てを“同時に成立”させたといって良い人物。それがシェイクスピアです。
庵野秀明+富野由悠季+ひろゆき+more…
とりあえずやばいことだけはわかる!
さて、シェイクスピアという人物像がある程度固まってきたところで、
当時の環境についてもう少し掘り下げていきたいと思います。
シェイクスピアが“内面”を発明し得た理由
劇場グローブ座:垂直に重なった社会階層
ChatGPT:
グローブ座(1599年)はこんな構造でした:
1階(中央):立ち見の庶民(肉体労働者、徒弟、職人)
2階:中産階級(商人の妻、町の有力者)
3階の特別席(いわばボックス席):貴族、法曹、王室関係者社会階層が“垂直に重なった空間”
つまり、
ひとつの作品を、身分がバラバラな人々が“同時に”見る。
現代で例えると、
・自治体職員
・大学生
・シティホテルの従業員
・官僚
・NHKの局長
・ホリエモン
が同じ新宿バルト9で、一つの映画を観ている状態。
現代でも、システム的・物理的にはありえなくはないけど、
この構図が、劇場の建築構造上「常時そうなっていた」というのが当時の特殊性のようですね。
つまり、この“混在性”こそ、シェイクスピアが多層構造の物語を書く必要があった理由である、と。
ChatGPT:
シェイクスピアの台詞が
- 低俗な下ネタ
- 貴族的な修辞
- 哲学的モノローグ
- 街のスラング
- 皮肉
- 歌
- 道化の即興
を全部内包する理由はここにあります。
観客が「同時に存在する複数の階級」=“意味の多層性”が必須だった。
つまり、どの階層にも刺さらないと作品として成立しない。
そしてこの“多層性”が、結果的に人間の複雑性=内面の発明につながった。
よく、「人の顔色ばかりうかがって、合わそうとするな!小さくまとまっちまうぞ!」なんて言いますが、シェイクスピアの場合は、とてつもなく大きくまとまってしまったみたいですね。。。
観客は「黙って鑑賞」しない:ツッコミ文化としての劇場
ChatGPT:
グローブ座は、静かな鑑賞空間ではなく、
ニコニコ動画のコメント欄みたいな世界です。観客は:
・ヤジを飛ばす
・拍手する
・ブーイングする
・ギャグに爆笑する
・セリフにツッコむ
・気に入らなければ果物を投げる
つまり作品は「観客との対話」だった。
だからシェイクスピアは、
観客の反応を毎回ブラッシュアップしながら
ライブで作品を作り続けた。この文化があったおかげで、
・キャラの心理が揺れた瞬間、観客がざわめく
・道化が軽口を叩くと爆笑が起きる
・主人公の独白に静寂が走る
こうした“心理の反響”が、そのまま作品の構造に定着した。
シェイクスピアが「劇中劇」、「独白」を多用するのは、
観客に直接語りかける装置だったから。
なんとなく昔のイメージはそうですよね。歌舞伎とかも「よっ!待ってました!」とか、あれ、観客が言ってんですもんね?
まさに配信者=ライバーですね。
異なる年齢・性別・文化圏の多層から飛んでくるコメントの温度感を瞬時に察知し、流れを整え、台本を作る。
これを約400年前、ネットではないゼロ距離で日々こなしてたのがカリスマライバー・シェイクスピア。
そしてそんな日々のさなか、彼の内面ではあらゆる意味内容がハイパーマルチタスクで稼働していたことでしょう。
なぜシェイクスピアだけが「全階層向け」を実現できたのか
ChatGPT:
劇場空間の社会構造は、シェイクスピアの革命を理解するカギになっていて:
- 垂直的階級の混在 → 多層的言語構造の必要性
- 観客の即時反応 → 内面描写が最強の武器になる
- 都市社会の複雑さ → 人間の多面性を描かざるを得ない
- 階級横断の普遍性 → “心理”が一番共有される
そしてこれら全てが組み合わさった結果、
“近代的キャラクター”が生まれたのは必然だった。
しかし、それを完璧に形にしたのはシェイクスピア一人だった。
時代が生んだ天才、というのもうなづけますね。これら多層構造の中でシェイクスピアがひときわ才能を発揮していたようです。
では、なぜシェイクスピアがそんな混沌とした空間で才能を発揮できたのでしょうか?
当時の階級制とシェイクスピアの“翻訳者ポジション”
ChatGPT:
これはめちゃくちゃ重要です。
シェイクスピア以前の劇作家は“階級偏り”が強かった
・マーロウ:高度教養(大学エリート)→ 高貴な悲劇ばかり
・グリーン:庶民を見下す → シェイクスピアを嘲笑した男
・キッド:庶民向け残酷ドラマ → 内面など興味なし
つまり、
全階層向け商品は“構造的には必要だったが、誰もできなかった”。
シェイクスピアの階級ポジション
・シェイクスピアは大学に行っていない
⇒職人・商人層の出身(父は手袋職人)
・ラテン語の古典教養はギリギリ
⇒大学ウィットほど高度ではない
⇒「貴族の言語」と「庶民の言語」の両方に距離が近い
・労働者の感覚がわかる
⇒劇場の立ち見ゾーンにいた庶民の言語・価値観を自然に理解できた
・同時に劇団経営で“上客=貴族”との交渉も行う
→ 高級な修辞・政治寓意を扱う必要もあった
つまり、シェイクスピアは、
階級間の“翻訳者”ポジションに偶然立たされていた。
なるほどー。まあ、これは歴史が出来上がった後だから言えることだけど、シェイクスピアのポジションは、本当に絶妙だったんですね!
①「多層性の商品化」は、すでに構造的に必要だった(産業の要請)けど、
②それを完璧に実現したのはシェイクスピアの個人の特異性で、
③その能力は“非貴族出身+中間的生い立ち”と密接に関係していた。
つまり、産業構造 × シェイクスピアの階級ポジション × 都市文化の爆発が奇跡的に一致した瞬間に、多層性の混沌の中で才能を発揮するシェイクスピアの伝説が誕生した、ということだったんですね!
次回:いよいよ『ハムレット』読書実況へ(第1幕)
というわけで、今回は
- シェイクスピアの人物像
- 当時のロンドン劇場文化
- 「内面」や「多層性」を発明しえた背景
といった、『ハムレット』を読むための前提部分(入門編)をChatGPTとの対話形式で整理してみました。
次回は、いよいよシェイクスピアの代表的な作品、
『ハムレット』第1幕を実際に読みながら、
中二病的主人公・ハムレットの“こじらせぶり”をChatGPTと実況していきます。

コメント